柳町で見つけた大切な人
確かこんなような、卒業論文を述べたことがある。
江戸幕府における宿駅制 ~千住宿を中心として~
テーマを千住宿に定めたのは、自分の生まれ育った
町だからと言う「安易な考え」だったが、そんなに
学問というものは、甘くはなかった。
想い出したくないほど、死ぬほど勉強をした…。
うなされながら、必死に底なしの沼に落ちている。
それでも、卒業後には、いいこともあった。
昭和三十三年『売春防止法』が、施行された年に、
彼は産まれた。卒論のテーマは江戸時代であったが
その後「千住の遊里」は、千住宿より離れた場所に
移転した。その場所が、幻のような「柳町」だった。
つかの間の刹那の遊郭は、整然としていたと聞く。
その柳町の、大門の中側で彼は、育った。
世の中の情勢が違えば、彼は廓の主であった。
その彼の名は、嘉伸。僕は、彼をお兄ちゃんと呼び、
お母さんを「お母さん」と呼んで、二人で営んでいた
知る人ぞ知る「鴨鍋」が有名な店に、通い続けていた。
目に見えぬ引力のように、僕は彼に惹かれていた。
音楽の話し、演劇の話し、映画の話し、廓の話し。
彼の店を出る頃には、朝焼けだったこともあった。
店の入り口には、少し大きめの信楽焼のたぬきがあった。
クラプトンの「チェンジ・ザ・ワールド」が似合う親子。
数年前の春先に、京都のギャラリーに、出品した作品
『櫻木五叉路 下ル』のモデルとなった場所が柳町。
四本煙突が見えていた愛おしき町。大切な想い出の町。
あの日から、心の整理はできてはいないけど。
そろそろ「お母さん」に、手紙でも書こう。
嘉伸さんの面影を探しに。
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